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MULTILATERAL AND ASSOCIATIVE & RESEARCHFRAGMENTATION OF CONTEXT
多角的・連想的調査と文脈の断片化
本企画は、人がこれまでに与えた役割、そしてこれから与えるであろう新たな役割、この双方が存在しない状態の“純粋なるモノ”を探し出すことから始まった。言い換えれば、人に使われることがなくなった状態で存在している物体を、改めて拾い集めるということである。
まず対象としたのは、京島にある旧お米屋さんの旧小倉屋である。この建モノは昭和30年代に建てられたが、家族や商売の形態の変遷に伴い、母屋・店舗・倉庫と数回に渡って増改築を重ね、数年前からは誰も住むことなく空き家となっていた。そして、この建モノの中には、多くのモノ達がひっそりと佇んでいたのである。また、旧小倉屋を中心とした京島地区にもその範囲を広げ、幾つかのモノを拾い集めてきた。
次に、拾い集めてきたモノそれぞれに対して、その出自やかつての役割などを、かつての使用者やその周辺で関わった人などから聞き取り調査を実施。またそこから派生するように、そのモノの一般的な謂れや歴史、それにまつわる小噺や物語などの調査、更にはダブルミーニング的手法によって連想的に調査の輪を広げていった。調査方法を多角的に、そして連想的にすることにより、時の経過を孕んでいるモノはもちろん比較的新しいモノについても、そこから様々な文脈を見つけ出すことを試みた。
最後に、こうして得られたモノにまつわる文脈を、ぶつ切りのキーワードとして断片的な情報へ還元し、モノと共に、次の段階である「即興的発声」に向けてのアーカイブとした。
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丸窓
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和竿
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溶岩
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アワビ貝
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鍋?
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ポチ
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姿見
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米穀店
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蚊取り線香が入っていたであろう缶
丸窓
- | 旧小倉屋一階の玄関とその先の六畳間を仕切る壁に開けられている。 |
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- | その丸をまた別の曲線が貫くように、根曲竹が配されている。 |
- | 根曲竹はイネ科タケ亜科ササ属チシマザサ(千島笹)の若竹である。信越から東北にかけては「根曲竹」と呼ばれることが多く、山陰地方などでは「姫竹」又は「姫筍」などと呼ばれる。(その他、山形県の月山周辺でよく採れる事から、この地方では「月山竹」又は「月山筍」と呼ばれる。)信越や東北は雪が多く、チシマザサの若芽が地上に芽を出し始めは雪の重みで根元が曲がっているものが多いことから根曲竹と呼ばれるようになったと言われている。 |
- | 京都の、高台寺の茶室「遺芳庵」、常照寺の茶席「遺芳庵」、祇王寺には、外壁一杯に大きく設えられた丸窓(吉野窓)がある。京都の稀代の名妓、吉野太夫の愛したもの(吉野ごのみ)の一つ。 |
- | 以下、編輯子 秋山 徹「藍と吉野太夫 -京の稀代の名妓吉野太夫と灰屋紹益-」https://00m.in/QMMuiより部分転載。 |
- | 日本のへそが京から江戸に移りつつあった慶長11 年(1606)、三月三日の“桃の節供”京都東山は方広寺のあたりに、松田徳子(のりこ)という雛祭にふさわしい美しい女の子が生まれた。父親は四国の武家で、仕官を求め上洛した浪人のひとりであったという。後の世に母親と兄妹の記録がないことから、徳子が生まれてすぐに、離別か死別か何がしらの事情により父娘の二人暮らしとなったようである。その父が、徳子六歳の時に亡くなり、天涯孤独となった娘は京都六条三筋の傾城屋〈妓楼〉「林屋」に預けられる。 主人の林与兵衛は、豊臣秀吉に願いでて、洛中に散らばっていた傾城屋〈遊郭〉を二条柳町に集め遊里を作ったほどの人物で、才智に長け、人望と胆力もある商人だった。その遊里は、ほどなくして二条柳町では「禁裏(きんり)」に近すぎて畏れ多いということで六条三筋に移る。その後に六条三筋が、今に知られる「島原」へと移るのは、この話しの後のことである。 徳子は預けられて間も無く「林弥/りんや」という名で、禿(かむろ:遊郭において太夫、天神など上級の遊女に使える10 歳前後の少女)として肥前太夫に付いた。大店(おおだな)「林屋」が徳子に屋号の林を与えたことは、この禿に対する与兵衛の期待の大きさが窺われる。類稀なる美貌と利発さを備える徳子に、与兵衛は金に糸目を惜しまず教養を身に付けさせた。徳子も与兵衛の期待にそぐわぬ天賦の才を発揮し「和歌・連歌・俳諧、琴・琵琶・笙、茶道・華道・香道・書道・碁・貝覆い・双六」などを極めた。下手な大名の姫君も裸足で逃げ出すほどの教養と美貌を身につけて、徳子14 歳の時「林屋」稀代の大名跡「二代目吉野太夫」が誕生する。 太夫お披露目のみぎり、出雲松江藩主・堀尾忠晴が化粧代として祝儀千両を用意したという。本来「太夫」とは位階五位の別称であるが、室町時代以降、芸能に秀でた者に与えられる呼称となり、遊郭の最高位にある者への呼び名ともなった。宝暦四年(1754)には廃止され、江戸吉原では「花魁」となったが、京都島原、大阪新町ではそのまま呼び名として残った。太夫は「大名道具」とも呼ばれ、一般庶民はもとより成り上がりの生半(なまなか)な金持ちでは相手にされず、彼女たちの客となるには、富とともに一流の教養人であることが求められたという。 いきおい吉野太夫の贔屓客も、お披露目の祝いをした松江藩主を始めとする大名に始まり、当代一流の文化人、洛中の豪商たちが名を連ねる。中でも後陽成天皇の皇子で後水尾天皇の実弟、時の関白近衛応山は特に熱心で、たびたび“身請け”を申し入れたという。 寛永八年(1631)八月一日、京の豪商「灰屋」の嫡子であるとともに、「にぎはひ草」という随筆などを遺した文人として名を知られる灰屋紹益(はいや・しょうえき)は、太夫を身請けした。注目すべきは、この時、吉野太夫二十六歳に対し紹益二十二歳という年齢である。 紹益が家督を継いだ「灰屋」という屋号は、文字通り灰を扱う商いを営んでいることから呼ばれた。「灰屋」が扱う〝灰〟は、化学染料が伝えられる明治以前の日本の染色には、〝藍染の藁灰〟〝紫根染の椿灰〟のように媒染剤として必要不可欠なモノであったため大きな需要があった。この灰を全国規模で大きく扱うことで「灰屋」は巨万の富を築き、京都でも指折りの豪商となった。しかし、弱冠若星二十二歳の青年が、天皇の実弟・関白と争って太夫を身請けしたというのだから、天晴れというか、その財力に驚かされると同時に、藍染の需要の度合いに圧倒される。室町時代中期までは、灰の販売を〝禁裏(きんり)〟が独占していたと聞けば、その利権の大きさの程度がわかろうというものだ。 吉野太夫の身請けについて、〝京スズメ〟の間では、「灰屋」が太夫の体と同じ重さの大判小判を支払ったという噂がまことしやかに流れた。また別の説によれば、林家与兵衛は紹益に「吉野太夫には、これまで充分儲けさせてもろてますさかい、大判一枚でよろしゅおす」と多額の身請金を要求しなかったというのがある。この与兵衛が身請け金を〝大判一枚〟しか取らなかったというのは話が美しすぎるが、紹益はこの身請けが原因で実家を勘当されているから、あながち間違いではないかもしれない。いくら豪商の跡取りとはいえ、二十二歳の紹益が莫大な金を自由に払えるとは考え難く、実家の「灰屋」が身請けのため莫大な金を支払った後に勘当するというのは、辻褄が合わないからである。 その後、勘当を許された二人であったが、暮らしぶりは大店の跡取り夫婦という割には質素であり、その中でも二人は、花を愛で、茶を点てて歌を詠み季節を過ごすという風雅な日々を送ったとされる。また、吉野太夫は日蓮宗の日乾(にちけん)上人に帰依し、上人が開山した鷹峯常照寺に山門(通称吉野門)を寄進した。彼女の墓も同寺にある。 中国にもその名が伝わったという絶世の美女として贅沢の中に廓暮らしをしながら、身請けされた後は派手な暮らしを嫌い、仏門に帰依し、風流人として夫の灰屋紹益と静かに生きたことは、吉野太夫が洛中の人々から愛された大きな要因となった。 寛永二十年(1643)八月二十五日、身請けから十二年の後に吉野太夫は三十八歳の若さで没する。紹益は亡き妻を思慕し、吉野太夫の遺灰を酒盃に入れ、夜毎これを呑んだと伝えられる。吉野太夫の愛したものが〝吉野ごのみ〟として、今の世にもいくつか残っている。その一つに吉野窓/茶室に設けられた大円の窓であるが、真円ではなく、わずかに下部が直線となっている。これは、仏教、特に禅林では真円は真理の象徴であるが吉野太夫は、決して完璧とはならぬ己を現すものとしての不完全な円をしつらえたとされる。 |
和竿
- | 旧小倉屋一階の六畳間を掃除していた時、長押の隙間から出てきた。 |
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- | 旧小倉屋の庭には池があり、この池を縁取っていたのは溶岩の“朴石”。 |
- | そこでは大きな鯉が飼われていたという。また、近所の十間川は、かつては非常に綺麗で澄んだ水が流れ、そこには多くの鯉がいたらしい。 |
- | 京島から程近い、本所や浅草、押上、深川といった下町界隈にはかつて名のある竿師が数多くひしめき、江戸和竿づくりの激戦区だったそう。 |
- | 和竿は、縦に裂いて加工していない丸竹を用いて作られる(洋竿は竹を縦に裂いて再接着して製造する)。 |
- | 江戸和竿では矢竹、布袋竹、淡竹、真竹、スズ竹などが竿の部分毎に使い分けられている。採取する時期や場所によっても細かく分類。また穂先などにクジラのひげを用いることもある。強度を増すために絹糸や漆、真鍮の管を用いることもある。 |
- | 和竿の主な種類として、江戸和竿、横浜竿、川口竿、郡上竿、紀州竿、庄内竿、加賀竿などがあり、紀州竿師の重鎮の一人に、細身で洗練された意匠を具えた竿を作る“朴石”という名の竿師がいる。 |
- | EXPOスタッフの留さんの叔母さんは、京島の竿師の娘。 |
溶岩
- | 旧小倉屋の庭で、幾つかは土盛りと池を囲う土留めとして、そして幾つかは小さな石組みとして据えられていた。 |
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- | 庭の土盛りには桜や柿の樹が育っている。 |
- | 以下、1998.9.2 菅原正樹(植木職人・小説家)http://danpance.blogspot.com/2018/04/37-1998-16-1998.htmlより部分転載。 |
- | 黒朴石、火山岩の一種であり、玄武岩質の溶岩塊。表面がごつごつし、あちこちに気泡の穴が空いている。一見して表も裏もないような代物。 |
- | 石という素材に恵まれなかった関東の庭に、富士からの朴石が多用されてきた。当初その用途はあくまで土留めという目立たぬ技法のうちに閉じ込められてきた。庭石類に比して下等品扱い。 |
- | 富士山は美しい。その裾野をしなやかに広げた姿形は、万葉の時代から歌いつがれ、築山としても庭園のなかへととりいれられ、借景としても利用されてきた。しかしその用法はあくまで観賞的な立場からなされるものであり、たとえ宗教的な畏怖心といったものが介在していたとしても、富士は対象としてあったにすぎない。つまりは富士が美しいとされるのは、それを遠くから眺めているからなのである。それを間近でみたら、あるいはその峰の最中にあって直面するものであったなら、どうなるというのか? |
- | 富士の山中へと最初に立たされたものが、その出くわしたこともない光景、果てしなく広がる樹海、風化した岩石の塊、砂漠のごとき大地、もしそこで圧倒されたまま立ち尽くすことが許されていないならば、人はこの殺風景な現実の最中を歩きはじめるほかはない。しかし一歩、一歩奮えながら押し出された足が次第に力強くなってその頂上へと至るとき、人は山を征服したというだろう。しかしこれは正確な言い方ではない、征服したのは山という対象物ではなく、その自然の「現実(リアリテイー)」に圧倒された自己自身に他ならない。そのとき富士とは対象としての「美」としてあるのではなく、自己への働きかけを通した「崇高」としてあるのである。 |
- | 「美」に対して「崇高」を区別し対置してみせる。死という不快(醜)なものを快楽(美)へと転倒してゆく欲望。「崇高」という技法には、両義的な働き。ひとつは無力な自己自身をなんとか延命させていこうという技法、そしてもうひとつは平和のための虐殺という近代史上においてはじめて歴史化したナショナリズムというロマンチックな戦法である。朴石とは、地下の溶岩ふきだまる煉獄から排出されてきたものに他ならない。つまり企まれているのは、ヒエラルキーの転倒という政治的・階級闘争。 |
- | あの戦争にかり出された多くの兵士(富士)たちが、砂漠や雪原やジャングルにおいて、心象風景などという自然主義的な観賞的・美学的態度などでは対処できない、決して内面化しえない自然の「現実」に直面してきた。いや都会の中にあってさえも、上官や同僚、そして人間の顔をもった敵、いや自己自身の内にさえ吹き荒れる自然の「欲動」に直面し翻弄されてきたのだ。そしてたとえば、この「現実」に直面した戦後派と呼ばれた小説家たちが、どんな構成をもつ作品群を提出してきたか?それは不完全であり、奇怪であり、美しくはない。しかしそれが彼等のそうでなくてはならない本領なのであり、意欲なのである。国家のために死ぬ美しさ、そんな支配階級が鼓舞し駆り立ててきた戦法に抵抗する形を、彼等は自らの作品で作り上げようとしてきたのだ。 |
- | 追記 東京は駒込の旧古河庭園は、洋風と和風が上下に並列的に構成された大正初期の庭だが、その和風の方の回遊式庭園は、植治が作庭したものだとされている。そしてその心字池の奥まったところに、枯滝が組んであるのだが、そこでは滝口としてイメージされた豪華な庭石を引きずり降ろすような気迫をもった構成で、朴石が多用されている。高価な庭石を包囲するまでにはいたっていないが、それに迫る勢いとして使用されているのである。それはこの庭の土留めの用法としての朴石についてもいえる。後楽園や六義園などでの用法があくまで目立たぬ脇役にしかすぎぬのに、ここではあるはっきりとした造形力として着眼されているのだ。ここからも植治が自然主義風の作庭家にすぎなかったというのは俗説にすぎないと推論できる。ロマンチストな文化人・山形有朋にその俗説はあてはまっても、激動の余燼の中を生きた職人である彼が、思想や意味などで創作できるわけがないモノとの対応に迫られたはずである。この庭からも、あるはっきりとした階級闘争の意欲を感じ取ることができる。 |
アワビ貝
- | 旧小倉屋の庭の桜の袂に置かれていたモノと、数年前に千葉(房州)で拾ってきたモノ。 |
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- | 大アワビの怒り。上総の国の浪花村という海辺の村(現千葉県いすみ市)に伝わる話。黒い雲⇄房州黒アワビ。 |
- | カリフォルニアのアカネアワビ。 |
- | えぐみ→えぐい→下ネタ。 |
- | 真珠層、螺鈿。 |
- | 真珠→体内に異物を混入して、体液としての炭酸カルシウム保護。外套膜と呼ばれる体を覆う柔らかな薄い膜。貝ガラを作り出すほか、呼吸や、海水量を調整を行う。 |
- | 真珠→アコヤガイ。 |
- | 阿古屋。平景清の愛人。京都五条坂の遊女で、近松門左衛門作「出世景清」や文耕堂・長谷川千四合作「壇浦兜軍記(だんのうらかぶとぐんき)」などに登場。 |
鍋?
- | 岐阜県で使用していたモノ。最近はめっきり使っていない。忘れていたモノ。 |
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- | 海が無く、山・川が多いため、岐阜の人はデイキャンプやBBQを日常的に行うが、その際に炭に火を付けるのに使用。 |
- | 炭・隅・住み・墨(田区)。 |
- | とにかくすぐに火が付く→火を起こす→火を熾す。 |
- | 炭が赤くなった状態 = いこる = 京ことばの一つ。 |
- | 京ことばは、「てぇ(手)」「めぇ(目)」のように母音を長く発音したり、「ろぉーじ(路地)」「こぉーて(買うて=買って)」などのように頭の音を長く引くため、優雅で穏やかな印象を与える。また直接的な物言いを避け、遠回しに言う傾向が見られるのも特徴。こうした京ことばの背景には、長い歴史の中で幾度も権力者の交代を経験した先人たちの、「本音と建前」を使い分ける暮らしの知恵が息づいていると言われている。 |
ポチ
- | 数年前に廃業した京島の老舗コッペパン屋のハト屋。救世主が現れたことによって、現在リニューアルオープンの準備中。 |
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- | かつてのハト屋のコッペパンは、ピーナッツやイチゴジャムが塗られていたモノがある。じゃあ、あんこ?クリーム?焼きそば?ハムカツ?とかは? |
- | パン自体も昔の素朴な味に比して、現在試作中の味は、コクのあるモノに。 |
- | テレビなどの取材もしょっちゅうあった。が、地元の人からすると普通?親父さんと女将さんは、結構クセがあった。 |
- | 実際は犬ではなく猫を飼っていた。 |
- | パンの包み紙には「ポチも欲しがるハト屋のパン」という文言とともに、パンを手にした男の子と、そのパンを欲しそうに舌を垂らし手を上げる犬のポチが描かれている。 |
- | ポチという名前は、日本で犬に付ける名前として、かつて一般的とされていたもの。 |
- | ポチの語源については、 ❶フランス語圏の宣教師が犬を「petit」(プチ=「小さい」の意味)と呼んだのを日本人が犬名と誤解したとする説。 ❷後述の擬態語であるポチ柄の犬(ぽちぽちとブチ模様がある犬)を示す説 ❸日本語の「これっぽっち」「ぽっちり」 ❹英語の「pooch」(プーチ = 口語で「犬」を意味する)や「spotty」(スポッティ = 斑の犬) ❺チェコ語の「Pojd'」(ポチュ = 来い) に由来するという説などがある。 |
- | 明治時代から広まった新しい名称であるが、1901年(明治34年)に出版された「幼年唱歌 初編 下巻」に収録された童謡「花咲爺」でも、犬の名前はポチとされている。 |
- | ポチ袋の「ポチ」は関西方言で「心づけ、祝儀」を意味し、もっぱら京都の旦那衆が祇園等の花街で舞妓などに与える御祝儀を包むために版画商に作らせた祝儀袋のことであった。 |
- | 「ポチ」には「小さな」(これっぽち)という意味があり、「少ないですが」という謙虚な気持ちで与えたのが始まりである。 |
姿見
- | 普段は布が掛けられており、鏡面は隠されているのが一般的。鏡には昔から様々な謂れ「霊の通り道」「合わせ鏡」「過去や未来の入り口」がある。 |
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- | 鏡の語源には「鑑みる」や「影見」などがある。 |
- | 鏡を見ている主体と、その主体が見ている客体は、どちらも自分? となると、鏡自体は何者なのか? |
- | 八咫鏡=八尺鏡 |
- | 一般に「八咫(やた)」は「八十萬神」「八尋大熊鰐」「八咫烏」等と同様、単に大きい・多いという形容であり具体的な数値ではない、とされているが、咫(あた)を円周の単位と考えて径1尺の円の円周を4咫(0.8尺×4)として「八咫鏡は直径2尺(46センチメートル (cm) 前後)、円周約147cmの円鏡を意味する」という説もある。 |
- | 天照大御神の岩戸隠れの際に、天宇受売命が踊り狂い、神々が大笑いすることを不審に思った天照大御神が岩戸を細めに開けた時、この鏡で天照大御神自身を映して、興味を持たせ、天手力男神によって外に引き出した。そして再び高天原と葦原中国は明るくなった。 |
- | 「Physiology and Behavior」に掲載された論文の一つでは、鏡に映った自分の姿を見ながら食事をすると、鏡を見ないで食事をするときよりも、おいしく感じることを明らかにしたものがある。研究グループは、65歳以上の高齢者と大学生を対象に、机の上に上半身が映る縦長の鏡を置いた小部屋と、ほぼ同じ大きさの縦型のモニターを置いた小部屋を用意し、それぞれで皿に盛ったポップコーン(塩味とキャラメル味)を好きなだけ食べてもらい、その前後においしさや好ましさなどを点数で回答してもらうという実験を行った。鏡とモニターの前でそれぞれ2種類の味のポップコーンを食べ(合計4回)、順番の効果が影響しないように、実験参加者ごとに順番は変えたという。その結果、味や年齢に関わらず鏡の前で食べた方が、人が映っていないモニターの前で食べるよりも、おいしいと感じ、実際に食べた量も増えたということだ。このことは、従来は「他人」が必要とされていた「社会的促進」効果に「他者」は必要でなく、自身の姿でもよいことを示している。 しかし、鏡は実際に動きと同期して鏡の人の動きを映す。「誰か」と同じ「運動」をしていることが、社会的促進を生起させるのに重要とも考えられるため、実験参加者自身が同じ物を食べている姿を撮影し、その静止画をモニターに提示した条件と、壁が映っているモニターを提示した条件で比較した。その結果、静止画でも「誰か」(参加者自身)が食事をしている姿が映っている方がおいしさが高まり、摂食量も増えたという。このことは「運動の同期」も必要ではないことを示している。 |
米穀店
- | 昭和の米穀店によく見られる、青地に白色の「おこめ・米」のペイントがされたホーローもしくはブリキの看板。 |
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- | 元々米穀店であったその名残りとして、旧小倉屋建物の南側の角にぶら下がっていた。 |
- | 「おこめ・米」のペイントの下には「知事許可販売店」との記載がある。 |
- | 江戸時代の米搗屋は、杵を担ぎ臼を転がしながら市中を歩き、客に呼び止められると玄関先や庭や道端に臼を置いて米をついて精米して販売。その後の舂米屋は、主に米問屋が経営。店先の桶に各地の米を入れて並べシーソーのような腕木の端に足を乗せ先についている杵で米をつく道具(唐臼)で精米して販売。明治・大正になると、幕藩体制がなくなり年貢米制度がなくなったため、各集落をまわって米を集める買子、仲買人を介して仕入れて販売。1912(大正10)年に米穀法が制定、政府による米の買入・売渡・交換が行われるようになり、少しずつ政府の統制が開始。昭和に入り、1933(昭和8年)に米穀統制法、1939(昭和14)年に米穀配給統制法、1942(昭和17)年に食糧管理法がしかれ、国が米を直接管理。米屋は許可制。その後、1955年の食糧管理法改訂で、米の小売業者は都道府県知事の許可制となり、強い参入規制。1969(昭和44)年に自主流通米制度ができ、1995(平成7)年に食糧管理法が廃止され、自由な取引へ。 |
- | 旧小倉屋にはEXPO期間中に、KY都知事が来訪=許可? |
- | ※印は、本文に補足的説明=注釈の意味。 |
- | 米を斜めに傾けると※印。まっすぐなものに対するカウンター的?サブ的?あくまでも補足的。 |
- | 青と白の看板は、道路標識と同じで、こちらは視認性の良さから配色されたらしいが、厳密の色番号の指定はなく、青と白なら良いらしい。 |
- | かつては年末に盛大に餅つきをやっており、御近所さんからは、毎年の楽しみだったというコエが多数。 |
- | 旧小倉屋の店舗だった部分(お米屋と乾物屋だった場所)は、現在目下改装中で、2021年にはネパールカレー屋がオープン予定。 |
蚊取り線香が入っていたであろう缶
- | 外側が錆てしまっているが、上部の形状から蚊取り線香が入っていたであろう缶と認識できる。 |
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- | 金鳥の渦巻、アース渦巻香、フマキラー蚊とり線香など、多数あるが、銘柄は不明。 |
- | 線香の元は、直線的なものだったがそれだと燃焼時間が短いか、非常に大きなものになって嵩張ってしまっていた。線香屋の女将が自宅の倉の中でトグロを巻いている蛇を見て、グルグル巻の線香なら!と見出した。 |
- | 平均睡眠時間の7時間を目処にしたサイズとしてスタート。 |
- | 当時は、女工さんにより手作業での制作で、彼女たちの多くは右利きだったために、トグロの向きは右巻き。しかし機械化の導入と、同業他社との差別化を図るために左巻きの線香が普及。 |
- | 不完全燃焼によって燻らせることで、煙を発生させ、蚊除け虫除けとしている。 |